徳山ダムとダム湖に沈んだ集落を忍ぶ(空撮)
今回投稿するのは徳山ダムにより出来たダム湖の空撮動画です。以前にも紅葉のダム湖などを投稿しているのですが、今回はダム建設により廃村になり故郷がなくなった人々の犠牲のもとに、日本最大のダムが出来ていることをはじめて知り、その知識を知らない方に少しでも知って頂くために編集しました。4分程度ですので、最後まで見てください。
埋没した徳山村は、岐阜県の揖斐川の上流、福井県との県境の山間地にある陸の孤島といえる場所にありまた。ここに水資源開発を目的に日本一のロックフィルダムを建設する壮大な計画がされましたが、しかし、それは村がそっくりダム湖に沈む亡村の計画だったのです。
徳山ダムは、水害が多発している揖斐川の治水と、東海3県の水がめとして建設され、水道用水、工業用水、電力の確保を目的とする多目的ダムで、構造はロックフィルダムです。日本最大級のダムであり、総貯水容量も日本一を誇る大規模なダムです。しかし、ダムの恩恵の裏には、故郷を失った沢山の人々の犠牲があったのです。
元々秘境の地であった徳山村の存続は、少子高齢化で限界集落となり、その後、滅亡の運命をたどるしかない運命だったと考えられます。そんな運命の中で、ダム建設による多額の補償金をもらい、生活しやすい場所に移転したほうが村民のためになるとの考えに私は賛同です。しかし、水没することは、故郷がなくなり、先祖伝来の土地や家もなくなり、生まれて生活した場所には二度と帰れないことは紛れもない事実です。特にこの地で生まれ育った老人にとっては、掛貝のない場所であったのあろうと思います。私はこの点が重要と思っているのです。
私の住まいの近くにも丹生ダム計画がありました。水没する集落の移転も済み、ダム建設に伴う周辺整備工事に着手したところで、中止となりました。当時の世論もダムは嫌われており、地元の県知事も「ダムに一定の治水効果があるが、副作用もたくさんあり、必要性は費用や環境への影響、維持管理のあり方などを含めて総合的に判断すべきだ」とのダム建設反対を唱え、事業なかばで中止になりました。
しかし、最近は地球温暖化に伴う異常気象により、想定外を超える大雨などが頻発し大きな被害が出ています。このような状況に対処するには、私はダムが必要と考えてます。時間に余裕がない中、洪水が発生するたびに犠牲者が出る状況です。命を守る最大の目的を重視し、環境への影響など副作用があるけれども、河川改修より即効性の高いダム建設は避けて通れません。ましてや、水没する集落の移転も終わっていたのに、それを中止にすること自体が私には考えられません。
徳山村ではダムによって水没する前、徳山本郷、下開田、上開田、山手、櫨原、塚、戸入、門入という8つの集落が存在し1500人ほどの人々が生活していました。村はダム建設計画により1987年3月に廃村となり、以後、人々は徐々に集団移転地に移って生活をしていることは事実です。
しかし、前述しましたように私はダム建設派です。ダムの恩恵を受ける地域の人々は、当たり前の世界になり忘れがちになるのですが、その経過や故郷などを失われた人々のことを忘れてはなりません。ダムによって出来た人造湖は、旧徳山村村民からの意見により旧村名から徳山湖と命名されました。彼らは、末代までその経過や歴史を伝えたいのです。この徳山ダムは廃村の犠牲の上に出来上がっていることを忘れてはなりません。
今回、その経緯を知らない私が、勉強させられた場所があり、そこで知りえた知識と感想を空撮動画に入れ込んでの投稿になりました。そのポイントとなる場所が徳山会館です。そのダム本体から更に奥に進むと徳山会館があります。この会館は旧徳山村民の皆さんが故郷に集える場所として整備された施設で、高台にあり、広大なダム湖と周囲の自然をゆったりと眺めることができます。また、館内には徳山ダムと旧徳山村を紹介する展示コーナーがあり、ダムに沈んだ村の歴史本や写真、ビデオも見ることができます。
最後に経過をまとめると、昭和51年に事業に着手し、村を出ていかなければならない人々との補償交渉が行われ、移転先の宅地造成などが終わり、1,500人の村人が何か所かに集団移転し閉村したのは昭和62年。その後、平成12年にダム本体が着工し、完成は平成19年で現在に至っています。